昨日、里の雨はちょっとみぞれ混じり、「アッ」いよいよ来るなと感じたがやっぱり来た。今朝岩手山を見ると中腹まで雪をかぶっている。例年初冠雪は山頂付近だけうっすらかぶる場合が多いのだが今年は一気である。八幡平山頂につながるアスピーテラインも吹雪で終日通行止めだったとか。雪国は季節の移ろいが視覚的で分かりやすい。雪国生活15年目にしてようやく「真冬」が好きになったのだが、それはすべての風景を美に変える魔法の雪♪と、何でもほっこりさせる魔法の薪ストーブ♪の奥深さを知ったおかげである。ということで、本気で薪割りと煙突掃除をせねば・・・・^^;
2010 年 10 月 のアーカイブ
岩手山初冠雪。冬将軍が山から攻めてきた!
2010 年 10 月 27 日 水曜日東京で運動不足解消。田舎はこれで良いのか?
2010 年 10 月 25 日 月曜日東京に1週間出張してきました。東京の拠点は「新宿区」、行くたびに風景が変わります。高度成長が始まった50年前までまだ野原があり、その5年前は多摩川で泳げました。都庁が20年前丸の内から新宿に引っ越して東京の中心に。その頃着手された大江戸線と地下高速道工事が13年前完成、歩いて100歩の所に地下鉄の駅ができました(ホームは地下36m!山手トンネルは3年前完成)。究極の便利さと引き換えに着実に「砂漠化、人工化、立体化」が進んでいます。奇妙なことにそんな東京では健脚でないと生活できずこの1週間で田舎の5年分位を歩いてきました。車社会の進んだまったく歩かない田舎とどちらが人間的な生活なんだろう・・・??
松茸も豊作。岩手山麓は紅葉真っ盛り!
2010 年 10 月 16 日 土曜日いま岩手山麓や八幡平は秋真っ盛り、山麓では毎週催しが何かしら行われている。リスも冬を迎える準備で木の実集めに大忙しだが、人間もきのこ狩りや紅葉狩りと短い秋の恵みを享受するのに忙しい。例年だともうそろそろ岩手山に初冠雪がある頃だ。雪の便りは岩手山山頂から紅葉を追いかけ里へと下りてくる。そして八幡平アスピーテラインも来月初旬には閉鎖、もうすぐ里も長い冬を迎える。来週は東京出張、薪割りも煙突掃除もしてないしどうしよう・・・
撮ったぞ~(^o^)/胡桃を取りにいつものリスが♪
2010 年 10 月 14 日 木曜日昼過ぎ何やら庭を走る影が・・??窓ガラス越しに外を見ているとリスが胡桃(くるみ)をくわえて一目散にやぶの中へ走りこんだ。ははーん・・♪♪いつものリスだ!しばらく前に胡桃の果肉を腐らせるため縁側前に山盛りにしておいたのだが、それをせっせと運んでいる。どうしても目の前を通らないと行き来できない。今回はエサもいっぱいあるので慌てずにカメラを準備する。ようやく撮れました♪5月19日のリベンジを果たす。胡桃に感謝!(※写真が拡大できます!)
縄文交流。鹿角から関善賑わい屋敷ご一行!
2010 年 10 月 11 日 月曜日だいぶ経ってしまったが、先月の30日の朝、NPO関善賑わい屋敷の会員ご一行20数名がマイクロバスでやってきた。鹿角市伝統工芸技術伝承事業の研修で、これから岩手県のさまざまな場所を視察するということだった。秋田の人にはやっぱり「菅江真澄」、天気が良く岩手山もきれいに見えたのでまずは“舟橋跡”へご案内。旧国道の松川橋の上で「岩手山と舟橋」の絵がこの場所からの眺めであることを見比べてもらう。そして今日の旅の安全を「サイカチ(災勝)」に祈願し記念写真を撮って里の駅澤口酒店へ。
35年後。まちづくりの原点の場所に立つ!(3)-歴史の保全
2010 年 10 月 5 日 火曜日風景に宿る生命の気を感じ、自然の保全や心の拠り所の保全には配慮した。しかし石碑の裏にはもう一つ大事なことが書いてあった。言いわけになるが行政の土木の仕事は建築と違って設計が終わると施工管理にはタッチできない。その後の発掘調査で縄文の大規模な遺跡が出土したことが記されていた。
当時は縄文の歴史や遺跡に対する評価はまだ低かった。時代も高度経済成長の延長上、三内丸山級の遺跡も東北新幹線や東北自動車道の下に次々と消えていた。八幡平市内の長者屋敷遺跡もその一つである(双六場3)。今日のような縄文遺跡の保全気運やその歴史的価値の再認識はその後20年経った1994年、三内丸山遺跡の登場を待たねばならなかった。もっとも遺跡保存ならこの団地はないのだが・・・
せめてもの慰めは地形をほとんどいじらぬ設計をしたこと。遺跡そのものは残っていないが“現住民”は“縄文人”と同じ風景とロケーションで生活していることになる。
(※写真拡大できるようになりました♪)
35年後。まちづくりの原点の場所に立つ!(2)-神社の保全
2010 年 10 月 2 日 土曜日この団地は東北自動車道の土取り場跡だったので、設計委託を受注しオッホが現地調査に訪れた時はすでに現在中層建築が建っている場所は削られていた。残っていた溜池やせせらぎの保全以外にもう一つ何とかしたいことがあった。境界に接した周辺住民の崇敬を集める神社の「背景」の復活だ。山が削られ本殿の後ろが剥きだしとなり趣を失っていた。幹線道路はそのすぐ後を通る計画となっていた。
今回の訪問で中央公園の中にひっそりと立つ大きな石碑を発見した。その裏にはオッホが設計時知らなかったことがいろいろ書いてあった。この地は「湯沢森」とか「巫女山(いたこどやま)」と言われ、頂上には権現様、麓にはこの雀神社を祀り、生命の水が湧き出る村の象徴の場であったと。
住宅地を減らして道路を動かし、神社の背景を作る最低限の木を植えるスペースとゆるやかな勾配を確保、旧住民と新住民の心の拠り所の場とするとともに、交流ができるよう団地からのアクセス路も加えた。公社の責任者が「オレの首が危ない!」と言わしめた力はきっと先の地神様が与えてくれたのかもしれない。当時のこんなやり取りを知っているのはもうオッホだけである。