35年後。まちづくりの原点の場所に立つ!(1)-自然の保全

 人間ドックを受けた病院がたまたま思い出の場所近くだったので、久々にゆっくり立ち寄ってみた。そこは今盛岡市となった旧都南村地区、35年前(1975年)主任技術者としてはじめて設計を任された団地である。当時まだ新幹線は開業10年前、盛岡には東京から夜行列車で打合せに通った。オッホの著作「風景と景観」の「風景文化の中の『命』-悠久の自然に手をかける-最初の戸惑い」の項に、「中心には緑に囲まれた静寂な池があり、その向こうの山に続くなだらかな傾斜の明るい林にはせせらぎが流れ、水を池にそそいでいた。そんな絵のような風景をはぎ取ることが私に課せられた仕事である。」と書いたその場所である。発注者であった当時の県住宅供給公社の担当課長から、「これ以上あなたの理想を入れるとオレの首が危ない!」と言わしめるまで生命を活かす設計にチャレンジした。いま岩手に住み、その35年後の結果が眼前にある不思議、そして公社は昨年役目を終え解散した・・・

宮沢賢治も愛した南昌山の麓の団地

宮沢賢治も愛した南昌山(正面)の麓にある団地


体を張って残した湯沢中央公園に残る緑

思いが通じて残った湯沢中央公園内の大ため池と緑


いま憩いの場となっている

いま新住民の憩いの場として、また歴史の場として

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