『“災勝ち・災克ち”を祈る!』-「災い」を改めて考える。(8)

『第2の“変人首相”(?)菅さんガンバ!』
 国会では死体(しにたい)と言われ四面楚歌の菅首相、個人攻撃のような挑発的質問に毎日さらされ、まだ1年足らずなのに頑張れば居座りと罵られ、普通の神経ならとてもやってられない。ちょっと追求されただけで手のひらに「忍」の字を書いて泣く大臣やら、安部、福田、麻生、鳩山と何もしないで次々に椅子を投げだす二世のおぼっちゃま首相連。そして被災地には一度も訪れずに反菅政争に明け暮れる地元某大物(?)政治家もいる。そんな人たちが国民の代表とは寂しい限り。
 もともと「菅降ろし」は大震災で目の前に死人や瀕死の国民が何万人もでているのに手を差し伸べることもせず、「菅さんでは無理!」と意味の分からぬ権力闘争を繰り広げた自民党と民主党の反菅勢力がしかけたものである。国民の声はずっと「主義主張を越え、この大事には一致協力すべき」であった。その菅内閣が何とか復旧を終えると最初の「無理!」の大合唱はいつの間にか消えた。一丸となってやっていればもっと復旧は早かっただろうに!
 3ヶ月ほど前、菅降ろしが盛んな状況下で世界一危険と言われた浜岡原発を菅さんが止めた時オッホは大英断と書いた(5月7日)。昨夜23時58分頃、静岡でマグニチュード6.1、震度5弱の大きな地震が起きた。その後も余震が続いている。この至極当たり前の決断を「思い付き」とか色々批判した人やマスコミはどう答えるのだろう。尻馬に乗ったり、他人の顔色ばかり伺う政治家にはできない実行力だ。震源は目と鼻の先、浜岡原発から20~30kmの駿河湾。事故が起きてからではもう遅い!
 原発は止めたらすぐ安全というわけではない。しかし、終息の目途が立たない福島原発を抱え、浜岡に“想定外”の事故が起きればそれこそ日本の息の根が止まる。停止しているだけでも安心感はずいぶん違う。日本人は人と違う意見を持つ者をすぐ変人扱いし排斥する。明治維新のように社会の価値観が大きく変わる時、窮地を救うのは“普通”と違った視点を持つ変り者であった。欧米のように“変人”をもっと評価すべきだろう。刀折れ矢尽き果ててもまだ活路をさぐる姿が「天晴れ」に180度変わる時が来るかもしれない。なでしこJapanのように。ただ日本人の都合のよい変わり身の早さもちょっと気になるけれど・・・

今日のサイカチの実【生命の継続。サイカチの“花から実へ”を観察】前回から更に1週間、また大きくなった!

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